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バックパッカーの旅Ⅰ(東京~アテネ)

バックパッカーの旅Ⅰ(東京~アテネ)

幽霊

                       ≪十月十六日≫      ―爾―

   この広場には、二つの売店がある。
  小さな、箱のような売店だ。
  食料品や土産物などが、処せましと置かれている。
  そのうちの一つに、四十過ぎぐらいのおばさんが一人で座っているのだが、そこへどこかからかおじさんが(多分、客なのだろうが)売店を覗き込んで、なにやら言葉を発したとたん、なにやら険悪な様子で口論を始めてしまった。

   真っ青な空とは反対に、雲行きが怪しくなってきたのだ。
  口論すると、必ず女の方が強いと見ておじさん、ついに手を振り上げ出したではないか。
  おばさんも負けじと、手を振り上げ出したが、所詮女と男、おばさんのほうが尻餅をついてしまった。
  すると、見る見るその辺にいて見守っていた大人やら子供やらが大勢集まってきて、その中の数人がおじさんの身体を羽交い絞めにしたではないか。

        青年「良い歳して、やめなよ!」

   こうなってくると女は強い。
  涙を流しながら、男をなじり向かっていくのだ。
  男は男で、これでは面白くないと、必死でもがいている。
  そうしているうちに、軍人やらポリスがやってきて、やっと納まった。
  何が原因で、喧嘩が始まったのかはさだかではない。
  わずか、30分ぐらいの出来事だった。
  このときのおじさんに、ピレウスへ向かう船の中で出会うのだが、向こうは気づいていないようだった。

   何事も無かったように、また静寂が戻ってきた。
  広場にも、ギリシャの国旗がいくつもはためいて、青い空を元気に泳いでいるのが見える。
  何か特別な日が来ないと、国旗を掲揚しない日本とはずいぶんと国民の意識が違うようだ。
  日本を出てから見る外国は、国旗がずいぶんと大事にされているのが分る。
  これは、当たり前のことなのだ。
  俺自身、日の丸が懐かしく思えてきた。

   日の丸は、国粋主義を表すとか、国家権力を表すとか、どうも第二次世界大戦に負けて以来、あの戦争を二度と繰り返してはならないと言う意識が強すぎるのか、どうも国旗アレルギーになってしまったようだ。
  日の丸は、戦争の犠牲者ではないか。
  戦犯が日の丸を利用しただけで、日の丸は利用されただけ。
  日の丸を否定する事は、ふるさとを否定するものではないだろうか。

   たとえ何処で生活しようとも、自分の故郷はいつでも心の奥深く存在するものではないだろうか。
  それは俺と言う人間を形成する為に、必要欠くべからざるものではなかったか。
  日の丸を否定する事は、俺の過去までも否定してしまうようで寂しい気持ちがしてくるのだ。
  そういう意味においても、もっと日本人は日の丸を大切にして欲しいのに、日の丸を国旗と認めない日本人が大勢いることに腹立たしく思う。
  国旗を否定する日本人を、果たして外国人はどう見ているのだろうか。

   自分達の国旗を大事にしなくて、どうして日本を大切に思う事が出来るだろうか。
  たとえ、日の丸が国旗と制定された経緯がどうあれ、現実に日の丸が日本の国旗として世界に翻っているではないか。
  そして見なさい。
  世界中の国旗の中で、ひと際美しく目立っている国旗は日の丸なのだ。
  白地に赤のシンプルな美しさ。
  これを世界に誇らなければ、何を誇ると言うのか。

   日本人はもっともっと、外国に出るべきだ。
  風土の違いとか、国情・習慣の違いと言い切ってしまっては、日本の精神的文化は、世界からどんどん遠ざかって行ってしまうような気がしてならない。
  今まで日本人は、自分達が長年培ってきた文化を捨てて、ここまで大きくなってきた。
  大国になった今こそ、自分達の先祖が培ってきた文化を大切にしながら、世界へ目を向けていく時代がやってきたのではないだろうか。
  あの青い空に翻っている、白十字のギリシャ国旗を見るたびに、そんな思いに駆られるのは俺だけだろうか。

                       *

   夕方になると、さすがに日陰は冷えてくる。
  夕食を取った後、広場からずっと続いている商店街を歩いてみる。
  海岸まで50メートルほどしかないが、この町のMain St.なのだ。
  狭い通りに、肩がぶつかりあう様に人々が往来していく。
  所々に、串しざしにした豚肉を焼いた食べ物を売っていて、一個60Dr(480円)。
  串一本と固いパン一切れ、これが寒い夜にはなかなかすきっ腹にしみとおるのだ。

   今日は土曜のせいか、店の大半は閉められ、昨日より幾分人通りも少ないように思える。
  日が沈み、宿の下にあるカフェ(食事はやっていない)に腰を下ろし、ティーを飲みながら、地元の老人達と一緒に、暗くなったエーゲ海をジッと見つめている。
  その目の前を、若い男女のカップルが、家族ずれがゆっくりと通り過ぎていく。
  そしてたまに、ビックリするような美人が通り過ぎる事もある。

   真っ黒なエーゲ海に光る灯りも、時折通り過ぎる美人も、どちらも素晴らしい眺めであることに、間違いはない。
  老人達はイスに腰掛け、エーゲ海に眼差しを投げかけ、日が昇り日が沈むまでの間の一部始終を、冥土の土産にしっかりと目に焼き付けているかのようだ。
  そして、何を思っているのだろうか。
  昔の自分の影を追っているのかもしれない。
  自分達の幽霊を必死で探しているのかも知れない。

                     *

        ”人はなぜ、追憶を語るのだろうか!
         どの民族にも神話があるように
         どの個人にも心の神話があるものだ。
         その神話は次第に薄れ、やがて
         時間の深みの中に姿を失うように見える。
         -だが、あのおぼろな昔に、
         人の心に忍び込み、そっと爪痕を
         残していった事柄を、人は知らず知らず、
         来る歳も来る歳も叛逆し続けているものらしい。
         そうした所作は、死ぬまで、いつまでも
         続いて行くことだろう。
         それにしても人は、そんな叛逆を全く
         無意識に続けながらなぜか、フッと
         目覚めることがある。
         訳もなく桑の葉に穴をあけている蚕が、
         自分の咀嚼する、かすかな音に気づいて
         不安げに首をもたげてみるようなものだ。
         そんな時蚕は、どんな気持ちがするのだろうか?”
                                                  (北杜夫著「幽霊」)より

                     *

   これは、北杜夫の「幽霊」と言う小説の書き出しである。          こうした事が、ここに座っている老人達の全てを表しているのかも知れない。  ひょっとして、そうする事によって、残りの人生を楽しんでいるのかも知れないのだ。
  そして、悔やんでいるのかも知れない。

   今の今、どうする事も出来ない自分達を想い、蚕と同じように首をもたげているのかも知れない。
  我々若者もいずれ、ここにいる老人達のような人生を迎えるのだ。
  それまでに、今自分達がなすべき事は何か、もっと真剣に考えてみるべきではないだろうか。
  そう、手遅れにならないうちに。

   そんな事考えたって仕方ないじゃんとでも言うように、若者達が寒い海岸の夜を、思い思いのファッションに身を包み、肩を寄せ合い楽しそうに、俺の目の前を通り過ぎていく。
  良く見てみると、同じカップルが何度も何度も、行ったり来たりしている事に気がついた。
  若者達の、家族ずれの、老人達の、そして俺達旅人の、長い長い夜がこうして始まり・・・・・終わりを迎える。
  相変わらず、暗闇にエーゲ海の灯りが、きまった間隔をおいて、強い光を放っている。
  今日は船が入港しない夜だと言うのに。


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